古典学習の要諦(2026年1月号)

 書の古典としてよく習われるものに、漢字書なら王羲之「蘭亭叙」、虞世南「孔子廟堂碑」、欧陽詢「九成宮醴泉銘」、空海「風信帖」、藤原佐理「離洛帖」、小野道風「屏風土代」、かな書なら伝藤原行成「粘葉本(でっちょうぼん)和漢朗詠集」、伝紀貫之「高野切(こうやぎれ)」、同「寸松庵色紙」等々が挙げられます。古典は書を学ぶ上で大きな手がかりとなる一方で、そこから何を学ぶかという点で注意しなければならないことがあります。
 習書の規範とされる前出のような古典には、共通の要件が備わっています。まず精細な点画の書きぶりです。手指の巧緻な運動を以て書かれているということです。次に線の表情の豊かさです。書は目に見える音楽というように言葉を具現化したようなリズム性に富む運筆で線を描きます。線の長短や太細(たいさい)のメリハリも大きく、ダイナミックな変化をつけながら、結局は全体としてそれを調和させています。字形のバランスも重心が上がったと思ったら今度は下がったり、左に振れたら、右に振れたりと、造形的にも単調さを避けています。こうした様々な書の表現要素を以て「言葉」を表現しているという点では、文学と芸術の双方の要素を併せ持つ、東洋の誇るべき文化に違いありません。
 古典の一点一画や運筆には、一文字あるいは全体において、なぜそう書くかについて考えることが大切です。例えば短い線が続いたら、今度は長い線になったり、細い線が続いたら、太い線が出てきたりします。右に大きく張り出した線があったら、数文字後に左に張り出した線が描かれたりします。つまり、部分部分が全体の中でそれぞれしかるべき役割を演じているわけです。ですから一点一画だけ、もしくは一文字一文字だけを抜き出して、これが古典の書だから絶対に正しい、というのではなく、全体の中で、部分の働きについて考えていくことが古典臨書の学習では必要となります。
 以上のように、古典からは学ぶべき事柄は多いのですが、古典を臨書さえしていれば、その真髄まで会得出来るかについては疑問が残ります。古典の臨書をしていても、いざ自分で手紙を書こうとすると、古典の書とは程遠い作となれば、古典から何を学び得ているか分かりません。芭蕉の言葉に「古人の跡をもとめず古人のもとめたる所をもとめよ」とありますが、古典から学ぶためにも日頃自ら言葉を書として紡ぎ出していくことをお勧めします。
 日本人は日常、漢字かな交り文で文章を書きます。漢字かな交りの確固たる古典はなく、今後の課題ともされています。古典とは歴史の評価に耐え時空を越えて生き残ったものです。年頭にあたり、古典から学び、新しい古典を創り出す気概をもって書に取り組んでいくことを是としたいと思います。