筆記具の把持について(2026年3月号)

 七百万年程前、人類が直立し、両手の自由を得、やがてその手は道具を使いこなすようになります。二百万年程前から始まった石器の使用は、現代の筆記具を用いて文字を書くという、より巧緻な手指の運動へと進化します。サルも手で物を掴むことは出来ますが、人間のように親指と他の四本の指を向かい合わせて「つまむ」という動作は出来ません。人間の親指はサルと比べると長く、この対向機能により筆記具を「把持」することが可能となっています。
 この「つまむ」運動は、器用に道具を使いこなすのに重要な役割を果たしています。人間の体の運動を司る脳の領域の中で、親指は、とりわけ広い領域を占めています。また、親指と、他の四本の指の動きを司る領域は重複しており、脳の機能から見ても、親指と他の指を協調させて道具を使いこなすことが、脳を大きく動かすことにつながることがわかります。筆記具を把持して文字を書くということは、単に指の細かい運動を行っているだけではなく、「言葉」も同時に司っていることになります。手指の運動と言語の関係は、脳において密接です。言語中枢といわれるブローカ野は、手指の運動を司る脳の領域のすぐ下方にあり、心臓から送られる血流の供給経路を考えれば、この関係は明らかです。ただし、脳はそれ自身、知覚や痛覚がなく、また外からその活動のようすが見えるものでもないため、普通この関係を実感することは出来ません。
 筆記具の正しいとされる把持の仕方は、掌てのひらにピンポン玉が入る位の空間をとり、親指と人差し指と中指で包み込むようにして支えるというものです。これなら親指と他の指を協調させながら細かく筆記具を操ることが出来ます。砂に人差し指で書いても指で文字を書いていることにはなりますが、ここには親指との対向機能が作用していません。また、パソコンでタイピングして文字を打つ際もこの「把持」という運動は行われません。正しいとされる筆記具の把持の仕方は、手指の動きを司る前頭葉の大きな活動を促す可能性があります。最近、手書きは「思考」を深めるのによい、という言葉をよく聞くようになりました。この思考を始めとした人の高次な機能を使いこなそうとするのなら、正しいとされる筆記具の把持の仕方は大変お得と言えるわけです。